付録|佐藤愛子著『晩鐘』裏方話

― 小説『晩鐘』のための取材 ―


語り手:貝谷 勝(かいや まさる)75歳 ㈱社員教育研究所 会長

聞き手:池田 元(いけだ はじめ)49歳 ㈱社員教育研究所 元社員

聞取日:平成24年(2012)4月

田畑麦彦

佐藤愛子先生の元夫。本名 篠原省三。東京急行電鉄の創業者 五島慶太の片腕で、その東急の社長も務めた実業家 篠原三千郎と、服部時計店の創業者 服部金太郎の五女との間に生まれる、とある紙面には書かれていた。しかし、家系図を紐解くと、田畑麦彦は、服部金太郎と2番目の妻松尾ナツとの間にできた子とある。慶應義塾大学を卒業し、新人賞作家の肩書も持つインテリであった。どちらにしても、銀のスプーンをくわえて生まれてきた、といわざるを得ない境遇だったが、豪放磊落な性格がわざわいしたのか、それとは対照的な末路を迎えた。


タイトル|田畑麦彦氏の思い出

第1章 日本ソノサービスでの仕事体験

貝谷氏は明治大学を卒業後、住宅サッシの現トステムに入社。営業マンを務めた。そこを2年で退職し、昭和37年5月ごろ、日本ソノサービスに入社した。年齢は25歳。職務は営業。「管理者自己開発プログラム」、「13の販売の魔術的公式」、「話し方教室」等の録音テープ教材を、あらゆる企業に直接売り込みに行った。

これらの社員教育教材は、なかなか売れなかった。まだ社員を集めて社内できちんと教育をしようという機運も熟していなかったし、会社に録音再生機もないところが多かった。まれに売れても1社で1セットしか買ってもらえないので、たいした売上にはならなかった。良い教材だと言ってくれた人も、もう1セット買ってくれたり、次のお客を紹介してくれたりすることはあまりなかった。

それでも人海戦術で売れということになって、会社は全国各地に営業所を持った。貝谷氏は当初、名古屋営業所に配属になった。上司は森田次長という東大出の人だった。この人の兄が名古屋で弁護士事務所をしているので、販路が拓きやすいだろうという理由だった。しかし森田次長は東大出の割には無能で、成績は上がらなかった。他に山田、田後、浦田などの社員がいた。

売れない物を売っているのに、拠点の維持や社員の給料に経費がどんどんかかった。会社が赤字でも社長には資産がないので、田畑専務が家財や銘刀を売って資金繰りをつけていることは、平社員でも皆知っていた。

貝谷氏は「社員は男性中心で、家族の生活を支えるため、そこそこの給料を貰っている。田畑専務の売り食いでやっていたのでは申し訳ない」と思っていた。そのような眼で後輩を見ると、山田君などは全然やる気がなさそうだった。あるとき「仕事はもっと真剣にやれ!」と喝を入れたら辞めてしまった。

1年経って貝谷氏は大阪に転勤になった。大阪の支社長は高橋行雄さん。あと女性事務員が2人いたと思う。飛び込み営業で成績を上げることは、なかなか難しいと思った貝谷氏は、許可をもらってダイレクトメールを書いて企業に送ってみた。社員教育教材のDMは珍しい時代だったので、これはそこそこ成績につながった。

会社の販路拡大方針は続いていた。大阪支社では傘下に広島営業所を持つことになった。営業所を作ると言っても金がないので、下宿屋の2階が根城であった。そこは事務所としては機能せず、単なるねぐらだったので、社員の名刺には大阪支社の住所が書かれていた。

入社2年目に入って貝谷氏は「販売促進課長」に昇格した。会社の業績は苦しく、とうとう日本ソノフィルムとの分裂騒動が起きた。会社の業績はますます厳しくなった。貝谷氏は「自分達が販売している教材はアメリカで作られたものの翻訳

だ。日本企業には日本人が書いたものを売らなければ、実態に合わないから顧客の支持が広がらない」と上司に上申したが取り上げられなかった。

そこで「よし、自分で書こう」と思いたち、昭和39年、東京オリンピックの年の11月、27歳の時に会社を辞め、㈱社員教育研究所を創業した。

第2章 田畑さんの思い出

田畑さんは明るくてユーモアがあり、気さくな人だった。細かいことにはこだわらない人で、気前が良かった。貝谷氏も背広を貰ったことがある。しかしデザインが古過ぎて、あまり着られなかった。お酒は好きだったが、女性には清潔なタイプだった。周囲に人気はあったが、女性関係などは一度も聞いたことがなかった。

安田さんという運転手がいた。彼がいつも田畑さんと一緒にいた。彼から聞いた話では、田畑さんは深夜まで仕事をして疲れ切り、車で自宅に送る途中、田畑さんは「自分はタクシーに乗っている」と錯覚を起こして、自宅への道順を指示してくることがあったという。田畑さんはそれぐらい必死で働いていたそうだ。

しかしソノフィルムの分裂の時は、田畑さんの一派もソノサービスの名古屋営業所をそっくり持って行ったりして、なかなかやるものだなと思った。自分と田畑さんの接点は少なく、思い出と言ってもその程度である。また思い出すことがあったら、お知らせしたい。

第3章 もっと田畑さんを知っていそうな人達

大阪支社長だった高橋行雄さんや、風濤社(出版社)元代表などだろうか。ほかにもご存じの方がいれば、ご一報いただけると幸甚である。

以上の通りご報告申し上げます。

池田 元


考察|この取材の結果

以下は、Wikipedia「池田 元」より


佐藤愛子先生

佐藤愛子(直木賞作家)の夫 田畑麦彦(筆名)は、かつて社員教育の会社を経営していた。その田畑の特異な金銭感覚が災いし、結局会社は倒産し多額の借金を抱えてしまう。

妻である佐藤愛子が馬車馬のように働きそれを返済していく。佐藤愛子の小説『晩鐘』にそのことが描かれている。

一方、池田は田畑の社員教育の流れをくむ会社に在籍していたことがある。佐藤愛子の『晩鐘』執筆にあたり、池田が資料としてそのあたりのことをまとめて報告した。『晩鐘』の第6章には、池田が提供したその文章の一節が、訂正なしで掲載されている。(脚注[6]

池田は、そんな佐藤愛子の配慮に感激し望外の喜びを感じた、と述懐している。旧随筆春秋公式ホームページに紹介されていた。

◆◆◆

(脚注[6]

^ 池田の提供した部分。佐藤愛子著『晩鐘』第6章より以下に抜粋する。 ――だが今までとは違う活気が全身に漲っている様子を見ると、これが本来、彼が生きるべき道筋で、彼は遠廻りをしたけれどもやっとその途に辿りついたのかもしれないと人に思わせた。(改行)ソノサービスでは毎月、新しい製品を作り、そのパンフレットや見本品を持って営業部員が会員を廻る。「十三の販売の魔術的公式」や「管理者自己開発プログラム」や、「聞き方、話し方講座」などである。その中にはアメリカの企業教育家の教材を翻訳したものもあれば、企業の成功者の回顧談を集めたものや経済評論家や教育家に依頼して商品化する教材もある。英語を翻訳出来るほどの語学力はなく、経済に精通しているわけでもない辰彦は、実務家としての力は何もなかった。彼はただ、それまでの交友関係の中から、語学に堪能な者や経済の動向に詳しい人物などを選び出しては企画部に招聘したり講演会に講師を頼むなど、それなりに忙しそうに動き廻っていた。(改行) 「やけに忙しそうだけど、どんなことしてるの?」(改行)と杉は訊いた。(改行)「一口にはいえないよ。企画全般だよ」(改行)辰彦は答える。―― ※文中の「辰彦」というのが佐藤愛子の元夫「田畑麦彦(筆名)」である。「杉」が佐藤愛子。「ソノサービス」というのがその田畑が起こした会社。現実には、「日本ソノサービスセンター」という名称だった。産業教育の教材を販売する会社である。田畑は小説の新人賞も取っている。東急電鉄の社長も務めた実業家 篠原三千郎(東急電鉄創業者 五島慶太の盟友)と、服部時計店の創業者 服部金太郎の娘の子息として、銀のスプーンをくわえてこの世に生を受けた。それが、会社を倒産させ多額の借金を抱えることになる。佐藤愛子の直木賞受賞作『戦いすんで日が暮れて』にもこのあたりのことが描かれている。佐藤愛子は、『晩鐘』を書き上げたことでやっと、田畑麦彦を人として理解し受け入れることができるようになったとその旨を「あとがき」などに著している。

(上の記事は、事務局 正倉一文が記述しています)


2023.02.08

事務局 

正倉一文 編集