2022年10月某日、歌舞伎座にて
2022年10月某日、歌舞伎座にて
◆歌舞伎座。場所は東京都中央区銀座。Wikipediaより
◆歌舞伎座正面で 吉崎典子さん(左)池田元(右)
◆歌舞伎座客席にて最右が もりいくすお先生 隣が池田元の娘さん そして池田元
写真の説明
江戸時代の元禄年間に「赤穂浪士(あこうろうし)の討ち入り」があったのをご存じだと思います。
赤穂(あこう)藩、つまり現在の兵庫県には、藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)という方がいたのですが、
それが上司のいじめに遭ってしまいます。
内匠頭は、江戸城内で朝廷の勅使(ちょくし)を迎える仕事を担当していました。
その礼儀作法を教える最長老が、吉良上野介(きらこうずけのすけ)でした。
少々気の短かった内匠頭が、江戸城の松の廊下、会社でいうと本社の広い通路で、
すれ違った上野介に、短刀を振りかざして切りつけ、
重症を負わせてしまいました。
自分をいじめた上司への仕返しでした。
幕府の判断でその日のうちに、内匠頭は、切腹となりました。
有名な辞世の句があります。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
(風に誘われて散る桜の花も名残惜しいが、それよりもなお、はかなく散っていく私は一体どうしたらよいのだろうか)
1701年(元禄14年)3月14日のことでした。
それに対して、赤穂藩の有志47人は、事前に綿密な計画を立て、
1702年(元禄15年)の12月14日、藩主の仇が寝起きする吉良家に討ち入りました。
これが世にいう「赤穂浪士の討ち入り」です。
上野介は、邸内の炭小屋に隠れていたところを発見され、その場で首を落とされました。
その結果、幕府より、赤穂浪士47人全員に対して、切腹の沙汰(さた)がくだりました。
切腹は、翌1703年(元禄16年)の2月4日と決まりました。
切腹というのは、短刀で自分の腹をかっさばくのですが、
人間、それだけで死にきれるものではありません。
そこで、介錯人(かいしゃくにん)という仕事が存在しました。
切腹する人間の首を、背後から刀で切り落とす役目です。
首には骨や筋肉がありますから、スパッと切ってしまわないと、切腹する本人は苦しみますし、
あたりは血の海となってしまいます。
ですから、介錯人というのは、剣の腕の立つ人間が、藩より選抜されました。
介錯人を輩出することは、その「お家」にとっては、譽(ほまれ)でした。
荒川家の場合、「荒川十太夫(あらかわじゅうだゆう)」が、介錯人としてお役目をまっとうしました。
その荒川十太夫から数えて10代目の子孫が、池田元です。
荒川家は、伊予松山藩の下級武士の家系です。
介錯という仕事を終えた荒川十太夫には実は後日談がありました。
とても泣かせるすばらしいストーリーです。
人間国宝の講談師、神田松鯉(しょうり)や、
その弟子の若手人気講談師の神田伯山(はくざん)が、
この話を好んで口演していました。
そこに講談好きの歌舞伎役者、4代目、尾上松緑(おのえしょうろく)が目を留め、
この「荒川十太夫」が伝統ある歌舞伎座で初めて上演されることになったのでした。
元フジテレビのアナウンサー、吉崎典子(よしざきのりこ)さんをご存じの方も多いと思います。
この方は、この13年、神田松鯉講談教室に生徒として通っている講談通です。
また歌舞伎にも精通していて、歌舞伎座で歌舞伎イヤホンガイドの解説を担当しています。
池田元は今回、この吉崎典子さんから取材を受けました。
池田元と吉崎典子さんとは、10年以上も前から、荒川十太夫を介して、知己の間柄です。
また、イラストレイターの もりいくすお先生 は、赤穂浪士研究会のメンバーです。
池田元とはそこで知り合い、現在は友人としておつき合いをさせていただいているそうです。
2022年10月、いよいよ「荒川十太夫」が中央区銀座の歌舞伎座で上演されました。
それに先立って、神田松鯉、神田伯山の講談が口演されました。
歌舞伎と講談のコラボレーションは、歴史的にいっても、たいへん希少価値のある目論見です。
そこへ池田元が娘さんを伴って出かけました。
写真はそのときのものです。
以上で説明はおしまいです。
2022.12.03
事務局|正倉一文
◆2022年10月の演目。歌舞伎座公式ウェブサイトより
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