1. 苔のテレポテーション (指導あり)

苔のテレポテーション


昭和天皇は自然をこよなく愛され、景勝地を散策なさるのがお好きであった。

昭和六十一年、かいじ国体の開会式にご出席される事が決まった時も、青木ヶ原樹海訪問をご希望になった。万一の事があってはいけない。

何カ月も前から警察と営林署が準備を始めた。

富士風穴の近くを視察したときの事。そこかしこの木の、ちょうど胸くらいの高さの所に、赤ペンキで×印がつけてあるのを発見した。

すわ、テロリストどもが凶事を企んでいるに違いない。関係者の間に緊張が走った。警察の調べで間もなく犯人が判明した。

富士山の静岡県側でビジネスマンの猛特訓をやっていて、時々テレビに出る変な学校の講師達の仕業だった。早速責任者を呼び付けると、ずいぶん若いひょろ助が一人で謝罪にやって来た。

実はそのひょろ助、二十五年前の私である。

樹海に入ったきっかけは、単なるトップの思いつきだった。

「青木ヶ原樹海をね。真っ直ぐ奥に入って、昼なお暗い木立の中でね。深々とした夜を迎えて寝袋にくるまり、木漏れ日ならぬ、梢から垣間見る星の光を眺めながら寝る事ができたら、どんなにかロマンチックだろうね」

側近Aが「さすが先生のアイデアは、スケールが大きい」とゴマをすり、側近Bが「研修生達の一生の思い出になりますね」と相槌を打ち、側近Cが「では早速、池田君にやらせましょう」とおせっかいを言って、私が実行する事になったのだ。

実際、樹海に分け入るのは恐ろしかった。あちこちに自殺は止めなさいという看板は出ているし、ここに勝手に入るだけでも犯罪ですという警告も書かれていた。だが、トップの命令だから絶対に行かねばならない。そういう職場だった。

道に迷って帰れなかったらどうしようとは、無論考えた。だから来た方を振り返れば、すぐ見える場所に、赤ペンキで印をつけながら進んだのである。

晴れていても太陽は見えない。方位磁針は役に立たなかった。マンガみたいにくるくる回転したりはしないが、足もとの溶岩が磁力を帯びているので、針が傾いて底に触れ、北を指さないのだ。はじめの頃は木々を透かしてみると国道139号線が見えた。だが目の前を車が横切って行くのが見えているのに、エンジン音は後ろから聞こえてくる。自殺志願者が翻意して娑婆に戻ろうとしても、今度は道に迷って餓死してしまう事があると聞いたが、こういう事かと合点が行った。

それにしても歩きにくいのには閉口した。

落ち葉を踏んで足が沈むと、何度も落とし穴のようになっている所に落ちた。その都度、くるぶしや脛を溶岩の角にぶつけてしまう。痛いどころではない、痣だらけになった。

危ないところにはビニールロープを張って進んだ。途中、ひどく腐臭のする所を通った。研修生達が自殺者ではないかと騒いだが、厳しく叱責して先を急がせた。口には出せなかったが、私は腐乱死体よりも野生の熊の出現のほうが怖かった。銃で武装したハンターでさえ熊を恐れるのに、こちらは棒きれ一本、持ってはいないのだ。

真夏の事だったが、午後五時には完全に日が暮れた。これ以上動くのは危険だ。溶岩が露出していて木立がなく、比較的平坦なところを見つけ、大きな土木シートを敷いて全員で寝転がった。寒かった。しかもあいにく空は曇っていて、星など見えなかった。ここで私は生まれて始めて「漆黒の闇」というやつを経験した。大げさでなく、前に伸ばした自分の手の指が見えないのだ。それなのに樹海の奥は、なぜかほんのり薄明るく、白いものがふわふわしているように感じる。不思議な感覚だった。

翌朝、何人かの寝袋が、朝露ではないものでぐっしょり濡れていた。

寝小便ではない。夜中に尿意を感じて起きた連中がいる。しかし少しでも仲間から離れるのは怖い。そのまますぐ脇で放尿し、お小水が後からじんわりとこちらに戻ってきた。そして寝袋の外側を濡らしたという次第である。私は一応彼等を叱ったが、その気持ちには同情した。その後はさほど時間をかけずに、精進湖に通じる遊歩道に出た。大ざっぱに言えば青木ヶ原樹海は、縦横に走る登山道と遊歩道に区切られている。真っ直ぐ歩けばどこかには出られる。

警察署では調書を取られ、説諭されたが、すぐに終わった。陛下のお迎え準備で、ひどく忙しいのだから、手間を掛けさせるなと釘を刺された。次に営林署に移動したが、ここでは随分こってりと絞られた。樹海は貴重な植物の宝庫であって、全域が国の天然記念物だ。私達が踏み荒らした苔類も、千年以上の歳月のなかで、どのように進化しているのかを研究しているとのこと。君らは取り返しのつかない事をしてくれたと叱られた。ともかく陛下をお迎えするというのに、赤ペンキが付いたままではどうしようもないと言う。

我々は現地に行って、木に付いたペンキを除去する事になった。

本当であれば私のほうで専門業者を雇うなりして、責任持ってきれいにするのが規則である。しかし行幸までに時間がないため、今日中に対策したいとの事で、職員の方々が大勢応援に出てくれた。

私は営林署の責任者から、雑巾とペンキ剥がしスプレーを渡された。

くれぐれも足もとの苔を踏み荒らさないように、樹皮の表面の苔も剥がさないように、塗料だけを慎重に除去せよと命じられた。

皆で一生懸命作業に取り組んだ。時間が矢のように過ぎて行った。

「あら、これは、なかなか取れないねえ」

一人の老職員が音を上げた。

「どうするかねえ」

責任者が相談口調で訊ねた。

「こうするしか、ないねえ」

老職員は地べたに生えている苔を、がばりとむしり取って、上からシールを張るように、ペンキの付いた樹皮にぺたりと貼った。

「これでくっつくかな」

責任者が訝しそうに言ったが、老職員は大丈夫だとうなずいた。

「苔の根は、かぎ針のようになっとるから、しっかり押しておけば付くよ」

見守っていた職員達から、いっせいに安堵のため息が漏れた。

その後は信じられないほどのスピードで作業が進み、日暮れ前には現場を撤収する事ができた。遠目に見ると、苔が見事にテレポテーションして、ペンキを隠してくれていた。

帰りの車中、私は責任者に質問した。

「陛下は遊歩道を外れて、樹海の奥までお入りになるご予定なのですか」

彼はおごそかに答えた。

「いや、そんなお時間はないのだが、陛下は生物学上の事に関しては、ご興味を抱かれるとふいにコースを外れたり、立ち止まったりして、徹底的に疑念を晴らそうとなさるそうだ。そういうお人柄だから、万事油断なくと宮内庁から言われているのだ」

やっと解放されて辞去する時、私を見送る職員達が、仲間に言うように「御苦労さん」と言ってくれた事が妙にうれしかった。どうせ自分の職場に戻っても、都合の悪い事は隠蔽され、上司にも知らん顔をされるに決まっている。むしろ他人の心に情けを感じた。

行幸計画のせいで、勝手に樹海に入った事がばれてしまったが、陛下のおかげで重い罰は受けずに済んだ。二度とできない経験であった。

なお余談であるが、陛下は結局青木ヶ原樹海に立ち寄るお時間がなく、御召列車で真っ直ぐ東京にお帰りになったとの事である。


執筆時期|2011年応募、2012年公開

作品舞台|社員教育研究所

受賞歴・媒体露出|第17回 随筆春秋賞 佳作、随筆春秋 第37号 掲載


佐藤愛子先生の指導

この作品ね、まあまあ面白いもんだからね、最初わたし気がつかなかったんですよ。池田さんあなた、まだエッセイの書き方がわかってないのよね。

はい? あなた、これが処女作ですからって?

そんなん関係ありませんよ。決まりごとですから。

トップのね、このトップというのは貝谷さんのことでしょ?

貝谷さんが思いつきで「青木ヶ原樹海に入って訓練しなさい」と言ったわけでしょう。それを側近Aが「さすがスケールが大きい」と言い、側近Bが「訓練生の一生の思い出になりますね」と言い、側近Cが「池田君にやらせましょう」と言ったという、この場にあなたはいなかったのよね。

あなたいなかったのに、どうしてこういうやり取りがあるということがわかったの? うん、そこにいた人から聞いた……伝聞なわけよね。

伝聞なら伝聞で「~と言ったという」とか、「~という次第だったそうだ」と、伝聞であることを読者にわからせなければ、見てもないことを見たと言っているのと変わらないのよ。エッセイでありながら読者に嘘をついていることになるの。それはもうエッセイではなくて、小説というのよね。

あなたはエッセイと小説の区別もついていないのよ。

小説なら小説でいいの。「これは小説です」と最初から読者に断っているならいいのよ。でも随筆春秋はエッセイの専門誌でしょ? そしてこの随筆春秋賞はエッセイの公募よね。だから厳密にいうとあなたの作品は、この実際に居もしない場面の出来事を、さも自分も居たように書いた時点で失格だったんです。これは見抜けなかった私たちの責任だし、もう表彰式も終わったあとで受賞を取り消すということもできないけれども、あなたがこれからも書き続けるというなら、この「事実を書く」というエッセイの骨法は肝に銘じなさい。

事実を書くことに支障があって、ありのままを書けないという時には小説にしなさい。小説もエッセイも文学的には優劣はないんですよ。どちらでもとにかく人を書きなさい。人というものを掘り下げて、掘り下げて書く、それが文学です。これでいい、これでわかった、これで終わりというものがないんです。それが文学の難しいところであり、面白いところです。

池田さん、おいくつ?まぁ49! 若いわねぇ。まだ何でもできるじゃあないの。頑張りなさい。

この作品、人を書くということで、まあまあよく書けているというのは、天皇陛下のことです。昭和天皇は自然をこよなく愛され、散策なさるのがお好きであったというくだり、そして終わりのほうの、ご興味を抱かれたら、

ふいにコースを外れたり、立ち止まったりして徹底的に疑念を晴らそうとなさるお人柄だという、こういう描写が、ああ、確かに昭和天皇はそういうお方だったなあと年輩者は共感できるんです。

それで警察とか営林署の人が「もしも陛下が樹海の中までお入りになったら……」と気をまわして、樹海の中のほうまであらかじめ徹底的に調べておく、そのことで樹海の異変に気がついたというあたり、そういうこともあったのかなあと思わせるところが良かったわね。


指導の時期|2011年頃




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池田 元

一般社団法人随筆春秋 代表理事 故郷の 愛媛県松山市。手前は 松山城の天守。城は 市内を一望する場所に建つ。祖母方の先祖は代々その松山藩の剣術指南役を務めた。元禄時代には赤穂浪士、堀部安兵衛と不破数右衛門の介錯人を拝命した。その先祖が 荒川十太夫。池田の筆名 荒川十太はこれに由来する。池田はその10代目子孫である。

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