2. ばあちゃんのご指名

赤穂事件研究会機関誌「加里屋城」第82号(2011年8月)掲載


ばあちゃんのご指名


私は十歳で母親を亡くしている。そんな事情から祖母に育てられた時期がある。昭和四十年代の半ばから二年、愛媛県松山市での思い出である。

祖母ノブの旧姓を荒川という。祖母は明治三十三年に生まれ、平成二年に死去しているので、この時代の人の年齢の数え方に倣うと、数え歳九十一歳ということになる。祖母は生涯をこの松山で過ごしている。

生前の祖母は和装を常とし、その挙措には子供ながらに近づきがたい凛とした気品があった。また、松山という土地柄もあり、祖母は俳句をよくしていた。今にして思えば、祖母は典型的な明治の女、「武家の妻女のたしなみ」を残していたのだ。

祖母には生涯の誇りがあった。

それは、先祖が赤穂義士の介錯をした剣士であったことである。

その剣士こそが荒川十太夫である。

多感な時期に祖母に育てられた私は、祖母から昔話をよく聞かされた。祖母の話に興味があったわけではなかったが、よく近所で喧嘩や悪戯をしては、祖母から説教ついでに十太夫の介錯にまつわる話を聞かされていた。そんなこともあって、ごく自然な形で荒川十太夫の話が私の記憶に刷り込まれたのである。

祖母から聞かされた話は、次のようなもの。

「私は荒川家から池田家に嫁いできた。荒川家は池田家より家格が上で、世が世であれば成らぬ縁談じゃったが、じいちゃんが是非ともと聞かんじゃったけん嫁ぐことになった。

荒川の家は代々松山藩の剣術師範を務めとった。先祖に荒川十太夫という人がおって、赤穂浪士のお預かりのとき、堀部安兵衛と不破数右衛門の介錯をした。大変な剣の達人であったそうな。

切腹の日、浪士の大将大石内蔵助の長男で、主税という人が一番に切腹なさった。まだお若い人で良い体つきをしといでなさったので、介錯した時に血がようけ噴き出したそうな。お庭の隅に梅が咲いておったが、それに血が噴きかかるほどで、それはそれはであったそうな。

死骸の始末にだいぶん時間がかかった。

次が堀部安兵衛で、この人は高田馬場の仇討で有名な人じゃった。後ろで刀を構える十太夫を振り返った安兵衛が、『ご身分は?』とお尋ねになった。十太夫は『ご心配なく』と答えたが、じっとこちらを見たまま。仕方なく『お馬廻役二百石でござる』と言うたんじゃそうな。本当の身分をいうたら、御家の恥になると思うたのじゃろう。後から十太夫は殿様に『とっさのときによくぞ申した』とご褒美をいただいたそうな」

繰り返し繰り返し聞かされた話。改めてこうして書き起こしてみると、四十年近いときを経て祖母の声が蘇ってくる。

時に祖母はこの話を補足した。

「ばあちゃんも子供の時から聞かされてきたのじゃけん、さあ本当じゃろうかと思うて句会のときに知事さんに聞いてみたことがあるのよ。そうしたら『事実ですよ、ちゃんと記録に残っておりますよ』と御言いたけん、これは本当の話ぞな」

知事さんというのは藩主家の嫡男、旧伯爵で愛媛県知事を務めた故久松定武氏のことである。松山では伝統的に俳句の会の時は身分の上下なく交歓できるので、祖母にもそのような機会があったのだろう。

一年前、佐藤誠先生のご厚意により、ここまでのお話を『加里屋城』第七十号に掲載していただいた。そのことが嬉しく、現在千葉県在住の荒川家の当主、荒川一(かず)征(ゆき)に思い切って掲載誌のコピーを送っていた。一征は祖母の弟の子で、私にとっては従叔父にあたる。

『加里屋城』を読んだ従叔父は、私を家に招いてくれた。四十年ぶりの再会である。祖母の昔話に、忘れ果てていた記憶が蘇った。

祖母は師範学校を出た後、教師をしていた。職業婦人の草分けである。私や妹の勉強もよくみてくれた。テストの結果よりも、取り組み方が大事だというのが祖母の考え方だった。だから漢字の書き順が違ったり、計算式を書かずに答えだけを記入したりすると、口うるさく文句をいわれた。ドリルでも、わからない問題を飛ばして後まわしにしていると叱られた。

「祖母ちゃんのいう通りしよったら、時間切れになって、テストの点が下がるで」

と反発する私に、

「私のいう通りにせんと基礎が身につかん。後になってから、どの問題も解けんようになって、結局は点が取れんようになるのよ」

 祖母は頑として主張を曲げなかった。

 社交的な祖母は、近所づきあいも盛んにやっていた。

松山の近所は農家が多かったので、親しくなると農作物のもらい物が多くなる。空豆をもらったら空豆だけ、馬鈴薯のときは馬鈴薯だけが、その日の唯一のおかずになった。祖母は「吝嗇」でも、「怠け者」でもなく、今にして思えば士族の女にふさわしく、徹底した「質素」を心がけていたのである。私は祖母との生活の中で、吝嗇と質素の違いを経験的に学んだ。

四十年ぶりに会った従叔父との会話は、そんなゆるゆるとしたものであった。従叔父は、確かにノブ伯母さんが一番賢く、また武家の家風にこだわっていた人だったと、目を細めてうなずいていた。

介錯人としての荒川十太夫の話については、口承しか残っていなかった。祖母には、幼いころから自分が聞いていた十太夫の話を何とか確かめたいという思いがあった。そこで前述の殿様の後裔である久松定武氏に、問い合わせの手紙を書いている。従叔父が、その下書きというのを持っていて、そのコピーを私にくれた。

祖母の手紙の冒頭は、いきなりこんな一節から始まっていた。

「私の母が毎朝、私達子供に目を覚ますよう申します際、決して『起きよ』とは申しませんでした。それは、松山のお殿様は隠岐守と申されましたから、お呼び捨てにはできないという意でございます」

そのあと、祖母の手紙は十太夫について触れている。堀部安兵衛の介錯の様子は浪曲などで語られてはいるが、尾ヒレが付いていてあてにならない。藩庫には実録があるのだと思うが、よろしければ拝見できないものだろうか、といった内容で結ばれている。事実を自分の目で確かめたい、という祖母の強い探究心がにじみ出ている文章であった。

この手紙、今となっては本当に出したものかどうかも定かではない。ずいぶん昔、下書きを荒川の家に送ってきたのだそうだ。久松氏には句会で会って、直接お墨付きをもらったという話を私は聞いており、案外それで祖母は満足していたのかも知れない。

私に会って刺激を受けた従叔父は、松山に帰省したときに色々調べてきてくれた。そのおかげで、十太夫のおぼろげな姿が深い霧の中から浮かび上がろうとしている。

義士の切腹は元禄十六年二月四日申の中刻、伊予松山藩藩主松平隠岐守定直の三田中屋敷でのことである。松山藩では四十六士のうち十士を預かっていた。十太夫が介錯したのは、二番目に切腹した堀部安兵衛と、五番目の不破数右衛門である。

浪曲の忠臣蔵外伝『誉れの三百石』では、ここで足軽の十太夫が安兵衛の「ご身分は」との問いに対し、「物頭役、三百石でござる」と嘘をつき、後で隠岐守が本当に物頭役三百石に登用してくれるという筋書きになっている。だが、それは事実ではない。

荒川十太夫は元禄二年、江戸において隠岐守に仕官している。身分は徒歩目付、十二石三人扶持。松山藩士荒川家の初代である。介錯を務めて十八年後の享保六年に大小姓役、禄高は十六石に出世した。さらに老年に至って金納戸役として三石加増され、十九石の常詰格となっている。藩主の交代や連年の凶作による財政難の渦中での出世であるから、幸運には違いない。だが、ずいぶんと長い時間がかかっている。勤勉なサラリーマンの出世の範疇を超えるものではなかろう。

幕末。十太夫から六代目の荒川又次郎に至って、馬廻役十七石になっている。正岡子規の父、常尚と同役である。また堀部安兵衛が浅野家の馬廻役であったこと、十太夫がとっさの時に自ら馬廻役であると名乗ったことを思い合わせると、奇縁というほかはない。

七代目の正孝は維新の時に帰農に失敗して辛酸を嘗め、八代目の慎太郎は太平洋戦争の戦災で家屋を失った。また、一征の実父で正孝の次男にあたる周二郎も、インパールで戦死している。遺物が残っていないのは仕方がないとしても、七代目、八代目はよほど世の中に懲りたらしく、先祖は先祖、自分は自分という主義で、何の話も残してはくれていない。祖母への口承が残ったのは、ひとえに祖母の母とさらにその母親、つまり祖母にとっての祖母の力に負うところが大きい。

去る七月三日、佐藤誠先生のお招きに預かり、従叔父と二人、赤穂事件研究会に参加させていただいた。帰り際、高田馬場の仇討の顕彰碑の前で、堀部安兵衛の御子孫にあたる佐藤紘さんと記念撮影をした。私は固い笑顔で写っている。実は、思いのほか緊張していたのである。この方とは三〇八年の時を経ての邂逅となり、無理もないことである。祖母が泉下でどんなに喜んでいることか、そう思うと自然と胸が熱くなった。十太夫と安兵衛に至っては、その思いはなおさらであろう。

佐藤紘さんには無論のこと、最初に佐藤誠先生をご紹介してくださったもりいくすお先生に対しても感謝の念に堪えない。

堀部弥兵衛金丸の介錯人、米良市右衛門の御子孫にあたる近藤健さんにも詳細をご報告したところ、

「池田さん、それは御先祖様のご指名に違いない」

とおっしゃるので、下手な文章にもめげず、こうして蛮勇を奮ってまた寄稿させていただいた。

私にとっては「御先祖」というより、「ばあちゃんのご指名」があったのだろうと思えてならない。歴史は奥が深くて面白い、改めてそんな思いをかみしめている。

そんな中、私の中では新たな疑問が頭をもたげている。荒川十太夫は、浪曲や講談では人気者である。人情から偽りをはかり、それが明るみに出て大出世を果たす。人々はそんな十太夫の行動に感動し、また、粋な計らいをした殿様に大きな喝采をおくる。『誉れの三百石』は、そんな浪曲の王道ともいえる話に仕上がっている。ではなぜ、一介の田舎侍がこんなに有名になったのか。

その謎を解く糸口が、明治期の荒川家にある、と私は踏んでいる。当時の荒川家は、高浜虚子と家族ぐるみの交際があったという。虚子の主催していた機関誌ホトトギスが、この『誉れの三百石』誕生に何らかの役割を果たしていたのではないか、そう思えてならないのである。

三百年の時を経て、十太夫の真実に迫る謎解きは、始まったばかりなのかも知れない。

何とかして泉下のばあちゃんを喜ばせてやりたいと思っている。    


執筆時期|2011年

作品の舞台|赤穂事件研究会

媒体露出|赤穂事件研究会機関誌「加里屋城」第82号(2011年8月)に寄稿


◆◆◆

イラスト もりいくすお先生

荒川十太夫を演じた渡辺謙氏

TVドラマ 「忠臣蔵47分の1」

主人公  |     堀部安兵衛

主演  |   木村拓哉(SMAP)


◆◆◆

池田 元

一般社団法人随筆春秋 代表理事 故郷の 愛媛県松山市。手前は 松山城の天守。城は 市内を一望する場所に建つ。祖母方の先祖は代々その松山藩の剣術指南役を務めた。元禄時代には赤穂浪士、堀部安兵衛と不破数右衛門の介錯人を拝命した。その先祖が 荒川十太夫。池田の筆名 荒川十太はこれに由来する。池田はその10代目子孫である。

0コメント

  • 1000 / 1000