14. 堀川とし先生のこと ~随筆春秋の草創~(指導あり)
随筆春秋の創設者である堀川としが鬼籍に入り、今年で21年になる。亡くなったのは平成8年10月25日、享年84歳であった。彼女は堀川とんこう先生の母上である。
僭越ではあるが先生のご承諾をいただいたので、創設者の生涯を振り返ってみたい。
としは明治44年、群馬県吾妻郡中之条町に生まれた。異母弟妹を含めた九人きょうだいの次女で、上から4番目の子であった。実家は元々裕福であったが、父親が当時非合法とされた社会主義者で、多事多難の少女期を送っている。小学4年の時には、使用人夫妻の家に養女に出されている。
しかし彼女は生来明るく、努力家であった。成績は優秀で、小学校ではずっと級長を務
め、女学校から師範学校へと進み、昭和4年には小学校の教諭となっている。
昭和11年、職業軍人堀川義武の妻となり、当時の規則により学校は退職させられた。
その頃のとしは、化粧っ気がなく色黒なのをからかわれて、地元の青年達からは「砲丸先生」とあだ名されていた。砲丸だけに、軍人に嫁入りしたのも何かの縁なのかも知れない。
翌年、二人の間に長男・敦厚(あつたか)が誕生した。後のとんこう先生である。さらに数年後には娘も得て、一家は4人となった。
長引く戦争と戦後の混乱は、としの人生にも大きな試練を与えた。頼みの夫は大陸に出征していて不在、復員したのちは公職追放にあい、仕事を制限された。夫婦はやむなく細々とした事業を転々とし、日々糊口をしのぐ生活を強いられた。
としの伝記で興味深いのは、庶民感覚から発する闇売買の肯定と、官憲の横暴に対する旺盛な反発心である。
戦後まもなくの頃、知人が大豆二斗を担いでいたところを警官に捕まり没収された。当時は警察による食料の取り締まりが意地悪なほど厳しく、見つかるとすぐに没収されたのである。
としはそれを聞いて単身警察署に出向き、知人がいかに生活に困窮しているかを訴え、大豆を取り戻している。
「いま思うとあんな小さなものを人々から取り上げて、その品をどうしたのであろうか。売って国の財政の足しにでもしたというのだろうか。没収証をくれたわけでもない、何とも不愉快、不可解な時代であった」
と述懐している。
昭和34年、ついに夫義武の事業が行き詰まり、一家は夜逃げ同然に上京した。長男の敦厚は東京大学に合格してすでに上京していたので、とし夫妻と娘が後から東京に出て来たことになる。このとき、娘の婚約者である美容師見習いの宗策も堀川一家の後を追って上京している。
最初のうちは、一家はバラバラに生活していた。その後、としの才覚で洋裁請負業を始め、中野区の作業場を拠点として再び家族一緒に暮らせるようになっていた。さらに、としの明朗快活で誠実な人柄を見込んだ近所の人々の支援により、杉並区で美容室を開店することになった。
宗策にはまだ一人前の技術力が備わっていなかったが、としの経営戦略により店長に担ぎ上げられた。パーマネントなどの困難な施術は、としがスカウトしてきた技術者が行い、宗策はもっぱらカットを担当した。としは受付と接客、娘が施術の助手、夫の義武が裏方全般を受け持った。そして敦厚自身も、としの依頼で集客のためのポスターを描き、銭湯や駅頭に貼りに行っていたという。文字通り家族総出の働きで店を支えた。
この店こそが「カット技術で美容業界の常識を変えた」といわれる、Hグループの原点である。Hグループはとしが自叙伝を上梓した昭和59年までに19店舗を展開し、宗策は社長兼カットスクールの主任講師に収まった。
グループの快進撃の裏には女婿となった宗策自身の努力はもとより、テレビ局社員という本業の傍ら、経営コンサルタント的な役割を果たした敦厚の存在が大きかった。しかし、一番の根底には、としの不撓不屈の事業意欲があったことは言うまでもない。
平成元年、私がまだ駆け出しの社員教育講師だったころ、人を介して宗策を紹介されたことがある。宗策は美容業界のカリスマとして大きな名声を獲得していた。紹介者はHカットスクールの若手講師の一人であったが、
「本当に凄いのは宗先生のお姑さんだ」
と教えてくれた。どんな人なのか興味を抱いてはいたが、残念ながら面会する機会には恵まれなかった。すでにとしは、成功した実業家として多忙を極めていたのである。
かくしてとしは、古希を過ぎてからようやく生活の苦労から解放され、趣味を楽しめる境涯となった。社交ダンスに旅行にハイキングと、どんなものにも楽しみを見出す才能があったとしは、趣味にも人一倍の熱情を注いだ。その中の一つがエッセイであった。
最初は大手機関誌の会員となり、文章修業を始めたのだが、そこは世間から何かと批判をされていた会社で、やがてとし自身も飽き足らなく思うようになっていた。そこでついに自分で随筆専門誌を創刊しようと思い立ち、同志を募って随筆春秋を設立したのである。平成5年3月、82歳の挑戦であった。
「文章を書くのが好きだという人が、気軽な発表の場を持てる。そんな文芸誌にしたい」
としの志に賛同した十余名の女性たちが第一号の会員となった。講師に迎えられたのが、朝日カルチャーセンターの斎藤信也である。
第一号と第二号は、表紙が模造紙で内側も廉価な紙で作られたものだった。実質的なスタートは、平成7年2月発行の第3号からということになる。この号から表紙が牛皮を模した高級紙となり、ユトリロ風の風景画が描かれて、グンとお洒落になった。
そして何より看板作家として佐藤愛子、早坂暁、金田一春彦という錚々たるメンバーが名を連ね、裏表紙は医薬品「救心」の広告で、児玉清が微笑んでいた。細かい説明が不要なほどの堂々たる体裁の本となった。
これも全て敦厚と、その妻で作家の高木凛の尽力によるものである。創業期は家族が一致団結して協力するという習慣は、ここでも威力を発揮していた。
しかし、何事も離陸するときは爆発的なエネルギーが必要だ。自分の志に周囲を巻き込み、損得抜きで働かせるロケットエンジンのような女性、それが堀川としであった。
としは「上州むかし噺」という連作で自分の幼い頃の物語を書こうとしたようである。しかしそれは五号で終わり、六号には「運命」と題した、自分の生涯を振り返った短編を上梓した。重い癌であったことを悟った上での遺言のような作品である。事実、死去したのはそれからほどなくのことであった。
としは随筆春秋を産み育てたものの、その後の大きな成長を目にすることなく逝った。
今年、同誌は24年目を迎え、第五十号の佳節が目前に迫っている。コンクールはすでに23回目を数えている。堀川としの植えた一株の苗木は、大樹といえるほどではないが、文学愛好家達の良き止まり木となっている。その木を枯らさない事こそが、私たち事務局員の使命であり、力の続く限り支える覚悟で日々臨んでいる。
※ 作品中の日時は掲載当時のまま、かな遣いも掲載時のままです。
第47号掲載作品 2017年春号「堀川とし先生のこと」~随筆春秋の草創~
佐藤愛子先生の指導
これは文字通りに随筆春秋の草創を書いたものだわね。これはでもエッセイではないわね。社史みたいなもので、文学ではないから、講評はしないでおくけれども、こういう自分たちの歴史のようなことを、事務局の人が書こうとするのは意義のあることだと思います。
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