15. 心の電話(指導あり)

心の電話


何かと慌ただしい歳末が過ぎ、消防団の初詣警戒も終わってほっとしていた1月3日の昼下がり、上木啓二氏の奥様から電話があった。

「えぇーっ、上木先輩が!」

聞き間違いかと思わず大声が出た。昨晩、心筋梗塞で救急搬送され、心肺蘇生も間に合わず、多臓器不全で旅立ったのだという。

享年七十八歳であった。

私は真新しい日記帳に、

「上木兄、なんでこんな時に死ぬんだよう」

と書きつけた。日記帳の斜め上には彼から届いた年賀状が立てかけてあった。まさにこれから、その返事を書こうとしていたところだったのだ。年賀状には印刷された文字で、

「『随筆春秋』は近藤・池田両代表のご努力により、社団法人化元年を迎えることとなりました。今後は同人一同力を合わせ『随筆春秋』の益々の発展のために努力しますので……」

と書かれている。ほめられて照れ臭かった。

昨年末、年賀状も書いていないのに、上木にはずいぶんと虫の良い手紙を出していた。新法人の監査役に頼んでなってもらっておきながら、これからも当分は無報酬でボランティアをやってくださいと依頼する内容だった。何でも甘えさせてくれる頼もしい先輩、それが私にとっての上木啓二氏であった。

平成二十三年八月のこと、私は初めて随筆春秋賞に挑戦し、運よく佳作に選ばれた。審査員であった上木氏の講評には、

「応募された二作品とも面白く、一気に読みました。ドラマチックな経験を題材にしておられるのは、あなたのエッセイの一つの方向性を示しているかと思います。素晴らしい筆力でした。これからも頑張ってください」

とあった。嬉しかったので、今でも大切にとってある。

表彰式で上木氏と初めて会ったが、私は佐藤愛子先生と堀川とんこう先生、斎藤信也先生と同じ卓にいたので、緊張していて何も覚えていない。

それから私は事務局入りを誘われて二度、三度、上木氏と軽作業を共にした。ずいぶん背が高くスマートで、着ているものもお洒落な人だなというのが最初の印象だった。普段の仕事は損害保険の代理店をしているとのことで、一緒に作業していても無駄口が少なく、話し方は言語明瞭、理路整然としていて、いかにも仕事ができる真面目なビジネスマンといった感じであった。

あるとき彼に寄り道を誘われた。

「臨時収入があったんです。だから今日は一杯おごらせてください。と言っても私は糖尿病ですから、行くのは喫茶店ですけど」

大先輩にそう言われて断る理由はない。臨時収入って、いったい何があったんですか、と興味津々になって私が聞くと、

「実は内臓にガンが見つかって、ガン保険が30万円ほど下りたんです。儲かりました」

と言うではないか。しかもそれを笑いながら言うのでびっくりした。固まってしまった私の顔を見て、上木氏は大きな目をクリクリさせて、いたずらっぽくまた笑った。

それまで見せなかったユーモラスな一面が垣間見えた。お茶を飲みながら彼は、

「私は若いころ作家になりたかったんです。でも結局生活のためにいったん諦めました。数年前、やっと仕事も子育ても一段落して、さあ思う存分書くぞと思って、インターネットで随分いろいろなところを探しました。一番真面目に文章修行を実行していると思ったのが、この随筆春秋です」

と言った。そして彼の次の台詞は、今でもはっきり耳に残っている。

「それなのに会員がたった百人足らずでは寂しい。この世の中には私のように文章修行の場を探し求めている人が、何千人、何万人もいるはずです。私たちは随筆春秋という松明を高く掲げて、もっともっと文章修行の希望者を集めなければならないと思います」

その覚悟が彼に献身的な事務局作業をさせているのか。私は初めて納得した。

当時事務局員には、随筆春秋の最新号ができたあとで佐藤愛子先生宅に事業の報告に行き、ついでに同人誌に出ている自分の作品を、それぞれ講評してもらえるという特典があった。私が初めて連れて行ってもらったとき、上木氏は「バス停の子」という作品を佐藤先生に認められた。佐藤先生のほめ方は独特で、

「上木さんのこの作品は良いわね。特に言うことはありません。エッセイのコツがわかった作品です」

と、ずいぶんと短い。上木氏は少し顔を赤くして天井を向いた。私は、

「上木先輩はすごいな。文章修行も卒業だ」

と思った。

ところが三年後、「おひとりさま」という作品を発表したときは、三十分以上も佐藤先生から細かい指摘を受けて、ぐうの音も出ないといった様子で下を向いてしまった。私は、

「上木先輩、やばいな。落ち込んでいる」

と思ったが、どうすることもできなかった。

しかし彼は帰りの電車の中で、

「まだまだ私も修行が足りませんね。もっともっと頑張らねば」

と決意して周囲を感心させたのである。

ちなみに私は上木氏の講評を恃みに、人生で経験した大事件から順番に作品にしていったが、筆力が追い付かなくて、いつも佐藤先生に叱られていた。いささか凹んでいたものだが、真剣に指導する九十二歳と真剣に受け止める七十五歳を見て、自分も武者ぶるいした。

彼を見ているとそれだけで勇気づけられたが、その上さらに私に向けて直接発する言葉は常に激励ばかりであった。手紙やメールに上木兄と書いていたが、実は私は、兄というより親父のように思っていた。あんなふうに年を取りたい、そう思わせる魅力があった。

上木氏の故郷は北海道で親戚はみなあちら、実の息子さんたちは遠方に居住している。いろいろ身内の都合が重なって、外部の者が参加できる葬儀はしなかった。だから私はお別れに行けず、今も彼の死が信じられないでいる。

困ったときに電話をかければ、今でも「はい、上木です」と、柔らかく包み込むようなバリトンボイスが、受話器の向こうから聞こえてくるような気がしてならないのだ。


※ 作品中の日時は掲載当時のまま、かな遣いも掲載時のままです。

第53号掲載作品 2020年春号「心の電話」


佐藤愛子先生の指導

お手紙拝見しました。エッセイの登場人物に敬称をつけても良いのかという質問でしたね。池田さんが第53号に掲載する予定の作品「心の電話」も読みました。亡くなった上木さんのことを書く時、あなたが「上木が、上木が」と敬称なしで書いて出したら、近藤さんに「上木さんは随筆春秋の先輩で、年齢もずっと上なのに、呼び捨てにするのはおかしい」と言われたのね。

それであなたが「佐藤先生にエッセイの登場人物には敬称をつけないものだ。布勢先生を書いた作品でも、敬称はつけないほうが良かったとご指導いただいた」と言ったら近藤さんは「それはおかしい。佐藤先生の作品“お地蔵さんの申し子”(九十歳。何がめでたい所収)では阿部商店のご主人をアベさん、アベさんと書いておられる。敬称をつけるなというご指導は、池田さんの聞き間違いではないのか」と言ったと。

それで混乱したあなたは手紙を書いて私に質問してきたと。そういうわけね。

これはまた困ったわね……。あのねえ、一般的にはね。エッセイの登場人物には敬称をつけないものなの。でもそう言うと池田さんは真っ正直に全部敬称を抜いて書くし、随筆春秋の会員たちにも、敬称を抜いて書くように言うわけでしょう? そうじゃないのよ。

“お地蔵さんの申し子”のアベさんは、私が彼らに身近で親しい感情を抱いていることを読者にわかってほしいからアベさんと書いたの。敬称をつけたり抜いたりするのは作品の目的によって変えていくものなんです。そしてその文体をどうこしらえていくか、計算して敬称をつけるか抜くか、どの敬称を使うかを考えるものなんです。

あの作品に出てくるアベさんは北海道の別荘がある浦河町の仲間なんです。もう半世紀近くの付き合いなのね。だから親しみをもって書いているわけだし、ちょっと私が彼らをからかっているような感じも受けるでしょう? そこなんです。それでアベはとかアベがとか呼び捨てにするのはキツ過ぎておかしいんです。やわらかく書くならアベちゃんとかアベ兄いでもいいんだけれど、それでは砕け過ぎて全体の雰囲気から似合わないから、アベさんが一番いいと決めたわけなんです。

でもこんなふうに教えると、今度は池田さんが「じゃあ上木さんが一番使いやすいから上木さんにしよう。これからは何でもかんでもさん付けだ」と考えるに決まっているから、そうは教えられないんです。こういうのは教えるものじゃないんです。作家としての感性をもって自力で判断することなんです。

近藤さんもあなたと対立したというけれども、おそらく理論立てては法則をいえやしないと思いますよ。彼の作家としての感性が「上木が、上木が」と敬称なしで書いて出した作品に、これは違うんじゃないかと警鐘を鳴らしたんだと思いますよ。彼はそういう人です。

文体が優先で、文章全体のバランスの問題を考えないといけないんです。池田さんの作品のことでいうと、上木さんのことを書いたのよね。彼とは随筆春秋事務局でのお付き合いだけでしょ。お互い知り合って5年かそこらだし、特別親しい関係ではないわね。だったら敬称は「上木さん」でいいのかどうか、よく考えて決めなさい。

前に布勢さんのことを言ったとき、前提として、彼はとても有名な脚本家であるということを考えないといけないのね。公人と言いますけれど、政治家とか評論家とか作家とかそういった特別に知られた人には敬称をつけないんです。布勢さんという有名な脚本家を随筆春秋の理事長が人物論として書くなら、敬称をつけたらおかしいの。

そうでなくて一貫して「悼む」というテーマで、池田さんが布勢さんに抱いていた感情だけを書く、布勢さんからは芸術論とかじゃなくて、私人として周囲に見せていた感情的な言動を書くということであれば、布勢さんでいいだろうし布勢先生でもいいだろうけれども、それにしても書き込んで書き込んで、自分の作品の文体の中でどう敬称を決めるのが一番良いか、読み込んで読み込んで、考え抜くことが大切なんです。

文学上の論争で佐藤愛子論を書く時は「佐藤は」、浦河の商店主を実業家として論評するときは「アベは」、と書くんですよ。これは感情の入った文章じゃないでしょう?

でも感情的なテーマで自然な心の動きを書き連ねていくときには「アベさんは」であって、「アベは」ではないんです。

こういうのは感性の問題で、その感性を磨くことが必要だということなんです。

どうも池田さんは1足す1は2みたいなエッセイの法則を知りたいみたいですが、そんな簡単なものではないんです。あなたにエッセイを語るときはうんとかみ砕いて、事例もやまほど挙げて「こういう場合はこう」「こういう場合はこう」と子供を諭すように言わなければならないことがよくわかりました。(笑い)いや、大変だわ。

結論としてあなたの作品の上木さんに、何という敬称をつけるのが良いのか、自分の作品を繰り返し読んで、文体そのものから発見しなさい。


佐藤愛子先生のご指導 2020年1月31日お電話にて。



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池田 元

一般社団法人随筆春秋 代表理事 故郷の 愛媛県松山市。手前は 松山城の天守。城は 市内を一望する場所に建つ。祖母方の先祖は代々その松山藩の剣術指南役を務めた。元禄時代には赤穂浪士、堀部安兵衛と不破数右衛門の介錯人を拝命した。その先祖が 荒川十太夫。池田の筆名 荒川十太はこれに由来する。池田はその10代目子孫である。

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