6. ばあちゃんの涙(指導あり)
ばあちゃんの涙
長男の私が生まれたのを機に、父は愛媛県松山市の郊外に広いテラスとウッドデッキのある洋風の家を建てた。昭和三十七年のことであった。小学校の校門の斜め前で、児童の声が絶え間なく聞こえる。孟母三遷の故事にならって、この地を選んだのであった。
母は教育熱心が余って、子供に対して常に厳しい体罰を行った。例えば通知表に三があると、その数だけ私の親指の付け根の合谷というツボに、父に言って米粒大の灸をすえさせるのだ。私は怖さと熱さと痛さで泣き叫んでもがいたが、両腕を父の膝で組敷かれているのでどうにもならない。母はそれを見ながら全教科四以上を取ってこいと訓戒した。
近所の子が遊ぼうと誘いに来ても、私は宿題と通信教育のドリルが済んでいないと外に出して貰えなかった。もし勝手に出かけようものなら、帰ってきてから母に両足首を掴まれて、扇風機のプロペラのように振り回されたあげく、畳に叩きつけられてしまうのだ。
二年生、三年生になるにつれて私にも友人が増え、野球やサッカーの面白さを覚えたが、家での勉強を終えて広場に行く頃には、すでに日が傾いていて、試合は終盤に差し掛かっていた。勝負に夢中になっている友人たちはめったに競技に加えてくれず、私はただ指をくわえて見ているしかなかった。
四年生の夏休みが始まる頃、母が癌にかかって入退院を繰り返すようになった。病気の進行は驚くほど早く、何度も手術が行われた。すっかりやつれてしまい、家にいる時も、大抵ベッドに横になっていた。母方の祖母や叔母が交代で泊まり込んで家事を手伝ってくれたが、ずっといてくれるわけではない。手伝いの者がいない時は、母が無理して台所に立った。そして外に買い物に行くのは必然的には私か二つ違いの妹の役目になった。
私は母の愛用している、大きなガマ口に注目した。中はいつも小銭がザクザク入っていた。特に百円玉と五十円玉は銀色に光って、使ってみろと誘惑している。ガマ口は、当時買い物に行く者全員の共用になっていた。一枚ぐらいごまかしてもわかるまい。私は買い物帰りに五十円玉を一枚失敬した。子供の一日の小遣いの相場が五円か十円の時代であった。私は駄菓子屋で山ほど菓子を買って野球広場に出向いた。両腕いっぱいに抱えた菓子をひとつひとつ子供たちに配るときの快感。皆で輪になって菓子を食べた後は、六年生のガキ大将の指示で、私が最初にバッターをやらせてもらった。
私は盗みのスリルと浪費の楽しみを覚えて、ちょくちょく小銭を失敬するようになった。私は母が末期癌であることは知らなかったが、衰えきった様子に、まず気付かれる事はあるまいと高をくくっていた。ところがある時、「最近小銭が足りないことがよくあるの。貴子が盗んで使っているのかしら」
と母が妹を疑って、父に相談している声が聞こえた。私はドキッとした。しかしまたすぐ入院してしまい、話はそのままうやむやになってしまった。
あるとき子供たちだけ、父方の祖母の家に預けられることになった。祖母は伯父一家とともに松山城下に住んでいた。武家の末裔であることを誇りとする祖母は常に和服姿で、子供ながらに近づきがたい凛とした気品があった。若い頃は教師をしていたとのことで驚くほど博識で、誰と喋る時でも教え諭すようなゆっくりとした口調で話した。私はそんな祖母がどうも苦手であった。
妹が隠居部屋に呼ばれ、お手玉で遊んでもらっている間、私は子供部屋に籠ってなるべく祖母とは顔を合わせないようにした。二つ上の従兄と立て続けに将棋を指していると、妹と同い年の従弟が、かまってもらいたがってこちらに寄ってきた。彼は将棋盤の横で財布の中身をぶちまけて言った。
「ほらハジメくん、見てみて。僕はまだお年玉を全然使ってないんやで。この通り百円玉が五枚もあるやろう?」
私は白銀の硬貨が再び財布に納められ、学習机の引き出しの一番上の段にしまわれるのじっと見届けた。
やがて私は従兄弟たちを誘い、銀玉鉄砲を持って外に出た。銀玉鉄砲は安いものが三十円、高いものは百円した。銀玉は一箱五円である。従兄弟たちは私が際限なく銀玉を買ってやるので大喜びして野良猫や蝙蝠退治に遠征した。そのうち安い鉄砲が壊れたので、三人で一番高いものを買いそろえた。金は全て私が支払った。
夜になり、お腹を空かせて帰ってみると、客間には美味しそうなご馳走がずらりと並んでいた。ところが従弟が子供部屋に行ったきり戻ってこない。私たちは先に食べ始めたが、祖母が心配して様子を見に行った。まもなく祖母は戻ってきて、私だけを子供部屋に呼んだ。行ってみると従弟が畳に突っ伏して嗚咽している。祖母は私の目を見つめて訊ねた。
「こうちゃんの財布からお金がなくなったのじゃと。ハジメ君は知らんかね」
私はわざと驚いた顔を作って首を振った。祖母は泣いている従弟を諭して言った。
「百円玉はピカピカ光るけん、ネズミが欲しがって巣に引いていくという話がよくあるのよ。こうちゃんが無くしたお金は祖母ちゃんが代わりにあげるから、もう泣くのはおやめ。客間に行って皆とご飯を食べなさい」
従弟は素直にうなずいて子供部屋を去った。
祖母ば再び私に五百円の行方を訪ねた。私は頑固にしらを切った。祖母は角度を変えて、今日おもちゃ屋で使った金はどこから出たのかと聞いてきた。私は答えなかった。祖母は私の顔をじっと見つめた。無言で見つめる大きな目から、大粒の涙が一粒ポロリとこぼれた。
続いてぽろぽろ、ぽろぽろ、ぽろぽろ、雨粒のように次々と膝にこぼれ落ちて、筋張って静脈が浮き出た祖母の手をしとどに濡らした。私は泣いてはいけない、泣いたら白状したのと同じこと、母に知られたらどんなに激しく折檻されるだろうと体が震え、必死に奥歯を食いしばって泣くのをこらえた。
「かわいそうに、魔がさしたんじゃろう。ハジメ君は本当にいい子なんじゃけん」
祖母が掠れた声でやっとそう言った。
そのひと言で心の中に張り詰めた糸がプツンと切れた。子ども部屋の襖を揺さぶるほど大きな声で、私はわんわんと泣き始めた。
執筆時期|2013年
作品の舞台|個人的なこと
媒体露出|随筆春秋第40号掲載
佐藤愛子先生の指導
池田さんのお祖母さんが、立派な人だったことがよくわかる作品ね。
お祖母さんの人柄が立派です。よく書けています。この作品、余計な説明がないのがいいわね。作者が書きたいこと、読者に伝えたいことと、作品の文章がやっと一致してきた感じがするわね。
あら、私から初めて褒められましたか、そうですか……。
気になる点がいくつかあるんだけれど、お祖母さんの家に行ったとき、あなたは従弟のお年玉を盗んだわけよね。その盗んだお金で玩具の鉄砲やなんかを買ったと。その盗んでいる場面をあえて書かなかったのね。この盗みの場面を書くか書かないかの判断は難しいところね。今回は書かなくてギリギリ良かったんじゃないかと思いますよ。
ダメなのはお祖母さんが涙を流すところの描写です。続いてぽろぽろ、ぽろぽろ、ぽろぽろ、雨粒のように次々と膝にこぼれ落ちて、筋張って静脈が浮き出た祖母の手をしとどに濡らしたというところの、ぽろぽろ、ぽろぽろ、ぽろぽろというのは何ですかこれ、余計よね。3回もぽろぽろの繰り返しは要らない。あんまり言い過ぎると却って作為的になってしまって、読者がついていけなくなり、伝えるものは何もなくて、書きたいことだけ書いてある場面になってしまうんです。
それから「しとどに濡らした」というしとどの意味を言ってごらんなさい。
スマホを見ないで。なんで見るの? 辞書も見ないで答えなさい。
何? びしゃびしゃ? うーん、ちょっと違うのよね。ここで使ってふさわしい言葉ではないと思うの、しとどという言葉はね。池田さんは何の目的があって「しとど」という言葉を用いたの? 使ってみた語感が良いからって、そんなんじゃダメよ、失格よ。正しい言葉を吟味して慎重に使うクセをつけなさい。
こういうところはね、普通の人は気づかないで読み飛ばしてしまうのかも知れないけれども、私ら言葉を紡いで生きている人種はね、気になってしょうがないの。こんないい加減な言葉の使い方をされていると、ここのところで引っかかって先に進めなくなるのよ。覚えておいてね。
その点、あとの祖母が掠れた声でやっとそう言った、の掠れた、というのは良いわね。お祖母さんの人柄がこの言葉からわかるんです。つい声が掠れてしまった、掠れた声をやっと絞り出した、そういうお祖母さんだったわけよね。これはあなたが昔のこの時のことを覚えていて、実際にお祖母さんが掠れた声で言ったのをそのまま書いただけだったとしても、作品の中で際立って効果を上げているわけです。
言葉ひとつでこんなに変わるんです。だから私なんかはもの凄く言葉にこだわるの。世間から見たら言いたい放題、考えもなく、感情的なことをただ書き散らかしているように思われているかもしれないですけれど、違うんですよ。寝床に入ってからも、あそこはあの言葉で良かったのかな、あの表現でわかってもらえるかなと、ものすごく考えているんです。真っ暗な中をいきなり起き出して書き直すことなんか、しょっちゅうあるんですから。
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