7. ばあちゃんの教え(指導あり)
ばあちゃんの教え
春先から母が肺癌で入退院を繰り返していた。昭和四十七年の秋のこと、私は九歳、妹は七歳だった。
父は多忙な銀行員だったが、母の実家には頼れる人がいなかった。そこで父の母親である祖母が私達の世話を買って出てくれた。
松山市郊外の我が家から城下の父の実家に行くと、祖母はもうすっかり身支度を整えて待っていた。持ち物は風呂敷包みが一つだけ。父はそれを車の助手席に置き、私と妹が祖母を挟んで後部席に座った。
このとき祖父はすでに他界していた。祖母は男女五人の子供たちと十人の孫たちに恵まれ、悠々自適の生活をしていた。老けた様子は少しもなく、趣味の俳句に生き甲斐を見出して多忙を極めていた。
「ばあちゃんの実家はお城勤めの頃、正岡子規の家と御同役じゃった。子規門下の四天王は佐藤紅緑(こうろく)、石井露月(ろげつ)、河東碧梧桐((かわひがしへきごとう)、高浜虚子(きょし)。虚子はもとの名を池内(いけのうち)清とお言いたが、ばあちゃんのお父さんとは、幼な馴染みの親友じゃったんよ」
だから自分が俳句をやるのは当然だという。祖母はあちこちの句会に顔を出し、最近では後進の指導まで手掛けていた。その楽しみを捨ててまで我が家を助けに来るのは、ひとえに私たち、孫に対する愛情からであろう。
車が我が家に到着した。広いテラスとウッドデッキが人目を引く洋館風の一軒家である。周囲の農家からは浮いてしまっているが、父と母が精一杯背伸びをして建てた城だった。
翌日から私は務めて台所に足を運び、家事を手伝おうとした。祖母の機嫌を取りたかったのだ。しかし祖母は私が台所に来るのを喜ばなかった。
「明るいうちは外で友達と遊んできなさい」
祖母は私にそう言ってくれた。母がいる時は、学校から帰るとすぐに宿題だ、通信教材だと勉強を強要された。近所の友達と遊べるのは日が暮れかけてからだった。少しでも言いつけに背くと、厳しい体罰が待っていた。祖母と母とは大違いだった。
「ご飯を食べてお風呂に入ったら、勉強のほうもしっかりおやりな」
命じるだけでなく、暇を見てはよく宿題を教えてくれた。祖母の教え方は丁寧であったがしつこかった。時には私とぶつかることもあった。たとえば算数の勉強では、
「ばあちゃんみたいに式をきちんと書く事にこだわったら、やたら時間がかかる。テストでは時間不足になるよ」
と口を尖らせる私に対し、
「何事も基礎がしっかりしておらんと、後で結局、自分が困るようになるのよ」
と諭してくれた。
担任教師は祖母のファンになった。
「池田のおばあさんがな。保護者会で成績、成績と騒ぐお母さん方に、小学生のうちはもっとちゃんと遊ばせてやらんと曲がって育ちますと言うてくれてな。先生は感心した」
先生、それは僕のことを言ったのです、と私は思ったが口には出さずに黙って頷いた。
師走に入って母が外泊を許され、一晩だけ戻ってきた。母は私と妹を思いっきり甘やかしてくれた。見送りのあとで祖母が言った。
「あんらたのお母さんはな、私の人生は本当に幸せでした。子供達をよろしくお願いします、とお言いて病院に去んだんぞなもし」
家事に疲れて窪んだ目に涙が光っていた。
それから一週間も経たぬうちに母は逝った。享年三十四歳。自宅で葬儀が営まれることになり、病院から遺骸が運び込まれた。父と私が次から次へと訪れる弔問客を案内し、祖母と伯母達が湯灌の準備をした。母の枕元に正座したままじっと俯いていた妹が、私をそっと手招きして言った。
「兄ちゃん、ママはまだ生きとるよ、ほら」
妹が母の顔に掛けられた白い布を取り去った。小さな手によって母の瞼がこじ開けられ、痩せてひときわ大きくなった目が、じっと宙を見つめていた。
そのとき突然父が部屋に入ってきて私達を部屋の隅に追いやった。そして死後硬直している母の体から、無理やり病院の浴衣を脱がせて、白装束に着替えさせようとした。しかし遺体は死してなお恥じらっているかのように、容易に脱がせることができない。父は怒気を含んだ顔で自分の兄弟を呼び、母の身体を浮かせておいて、力任せに浴衣を剥ぎ取った。
「ぎゃー、止めてぇ」
妹が悲鳴を上げた。女達が驚いて駆けつけ、叔母が暴れる妹を抱きしめて連れ去った。
「何をしよるのぞな、あんた!」
祖母が今まで見せたことのない、恐ろしい形相で父を叱りつけた。父は一瞬で萎れて小さくなり、葬儀はそこから祖母が一切を取り仕切った。父もまだ若かったのだ。背筋をピンと伸ばし、男どもを指図する祖母の姿は、まるで戦さ場の武将のようだった。
二年後に父が再婚するまでの間、祖母が母親代わりとなって私達を育ててくれた。いよいよ城下の家に帰るという日、
「ハジメ君も佐保ちゃんも、これからは新しいお母さんの言うことをよう聞いて、良い子でおりなさいや」
祖母はそう言い置いて父の車に乗り込んだ。車はどんどん遠ざかる。私と妹は懸命に手を振りながら、未舗装の砂利道を走った。
執筆時期|2014年
作品の舞台|個人的なこと
媒体露出|随筆春秋第43号
佐藤愛子先生の指導
この作品には書き直さなければならないところが沢山あります。
はじめの所のね、祖母はもうすっかり身支度を整えて待っていたという一行、これはもうお祖母さんがどういう人かを物語る良い描写ね。半面、そのすぐあとに来ている、趣味の俳句に生き甲斐を見出して多忙を極めていたというのはダメ。多忙を極めていたという言葉の選び方が良くありません。
作品の文体の統一ということを考えないと、多忙を極めていたなんて堅苦しい表現を採用すべきかどうか、池田さん、頭を使いなさい。ここは単に
「忙しそうだった」くらいに筆を抑えておくほうが、前後の内容に似合うというのがわからない? こういうのは教えても無駄かも知れない、センスの問題で、もっと言えば作家としての素質の問題だから、あなたには厳しいかも知れませんけど、わかるようにならなきゃ……。
それから一週間も経たぬうちに母は逝った。享年34歳。ここも書き直しなさい。堅苦しくて変で、読者が共感できません。どうして34歳。なんて体言止めするの? その理由は? あなたが理由を言えないということは意味なく切ったということで、私なんかはここで読むのが止まっちゃうんですよ。止めを使うのは強いメッセージを読者に送りたいときで、そうでなければここは、享年34歳だったで、まったく問題ないわけです。
安易に文章を切ったらダメです。
この作品はね、読者の琴線に触れるような、悲しい内容が書いてあるの。
だから文体はより柔らかく、語句はわかりやすいものを選んでいくことを心がけなさい。妹さんがお母さんの瞼をこじ開けて、ママはまだ生きていると言った、そこの描写が弱いですね。ここはあなたも、ああ本当だ、ママはまるで生きているように見える、というお母さんの寝姿の描写を加えなければ、小さな妹さんの未練心に読者は共感することができなくて、ただ何だか不気味になってしまうんです。
そのあと、父は怒気を含んだ顔で母の浴衣を剥ぎ取ったとあるけれど、なぜ怒気を含んだ顔なのか、意味がわからないわね。これはどうしてお父さんは怒っていたの? あなたにもわからない? 怒っているような顔に見えた? それならそう書きなさい正確に。私にはなぜだかわからなかったが、父は怒っているような表情をしていたと書かないと。さてそれで、どうしてお父さんは怒っているような表情をしていたの? ……それもわからない。
もっと考えなさい。あなたが書いた作品でしょう。父の心の中はこうだったのではないか、祖母の心の中はこうだったのではないか、あなたもう9歳じゃないでしょう。それでこのあとで「父もまだ若かったのだ」なんて文章が出てくるけれど、これはいま52歳の池田さんが、当時40歳そこそこのお父さんに向けて書いたセリフでしょう? こういうのは一番ダメなんですよ……簡単に片づけすぎ。あのとき君は若かったなんて言ったら、全てはその一言で解決してしまうんですよ。それで終わり。文学の必然性を台無しにしてしまうんです。
最後の未舗装の砂利道の「未舗装」という言葉も取りなさい。未舗装だから砂利道だったんでしょう。こういうのは言葉の重複よ。
こういう所を全部直してからの話だけれど、死んだお母さんの浴衣を脱がせて経帷子を着せようとする場面など、じんと来る箇所もあったわね。あなたのお祖母さんには、ぜひ一度お会いしてみたかったわ。
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