16. 佐藤愛子先生の教え「作家の感性を養う」(指導あり)
【前説|池田 元】
大切なご指導ですが、今回は講評ではなく、電話での敬語指導 <<15. 心の電話(指導あり)>> の続きでございまして、「作家の感性について」教えてくださった内容です。佐藤愛子先生の一人語りとなります。
このシリーズの先頭から2番目の <<◆. 佐藤愛子先生|表彰式でのお話(ものを書くというのは厄介な仕事です)>> のときも先生の独演会でした。
ではどうぞ。今回も貴重なお話です。
佐藤愛子先生
作家の感性を養う
教えて身につくものではないんです。作家としての感性はね。
池田さんは努力の方向が間違っているんじゃないかしら。きっと人の作品を読み過ぎるんですよ。そしてこの作家はこう書いてあるから自分もこう書かなきゃいけないって、そう考えてしまうのじゃないかしらね。そうじゃないんですよ。物事に接したときの感じ方というのは人それぞれで、その人の感じ方は独自のものなんですよ。他人の感じ方で作家の感性を身につけようとしたって無駄なことなんです。
例えば近藤さんが書くとしたらね。自分が見晴らしの良い丘の上に登って、向こうの山のほうに春霞がたなびいて「きれいだなぁ」と書きます。来た方に目をやると海が見えて、日の光がキラキラと「きれいだなぁ」と書きます。
それだけでわかるんですよ。読者にはわかるの。そして近藤さんの心と自分の心がじゅうぶん重なりあうわけですよ。
ところが池田さんが書いたらね。自分が登った丘は何丘で、向こうの山は何という山で、季節は春で、桜の花が爛漫と咲き誇っているから春霞がたなびいているように見えてと、かならず何がどうした、何がどうだと明確な主語・述語が入っていないと読者にはわからないじゃないかと考えるのね。
桜の花も山桜なのか染井吉野なのか、種類まで書いて主語を確定して書こうとするわけ。そんな必要ないんですよ。「きれいだなぁ」だけでわかるんです。主観だけでいいんです。
正確なことばを並べ立てることにこだわってしまうと、逆に間違ってしまうんですよ。
エッセイはどんなに短いものでも、完成したものでなければいけません。余計なことを書き並べている余裕はないの。いくら正確でも余計なものはいらないの。自分の感じたままを書いていくことが大切なんですよ。そこで何を感じて何を書くのか、それが作家の感性なのね。あなたは知らず知らずのうちに、自分の心で感じたものを二の次にして、正確に表現するにはどうしたら良いかなんて、頭で考えちゃってるんじゃないのかしらねぇ。だからダラダラと長くなるの。だから文章が固くなって文学らしくなくなるの。
池田さんは真面目過ぎるのよ。真っ正直なのはいいけれども、周りの影響を受けすぎるの。真っ正直なのはあなた、仕事面での信頼は得られるだろうけれども、文学には邪魔なんですよ。もともと作家になるような人にはろくでなしの曲者が多いのよ。昔からみんなそうだった。人の言うことをいちいち真に受けるような、そんな真っ正直なのはいないの。人の言うことなんか聞かないの。私も変人の一人なんですから……。
あなたに変人におなんなさいと言っても無理だろうけれども、自分の持っている真っ正直さが悪い癖になって、良い文章を書く邪魔になっていることは覚えておきなさい。作家の感性は教えるもんじゃなんです。近藤さんはすでに作家の感性を掴んでいるのね。あなたも自分の心を掴む努力をしなさい。それはもう近藤さんのようにはできないかもしれない。だけど人のようにやる必要はどこにもないんですよ。
ちょっとね、あなたにダメだダメだで厳しく言い過ぎたかも知れないけれど、私はこの人には言ってもいいだろうと、ちゃんと人を選んで言っているんでね。そのつもりで聞いて下さいよ。じゃあ今日はこれで……。
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